大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)5768号 判決 1986年5月29日
原告
藪下正蔵
右訴訟代理人弁護士
小山田貫爾
被告
岸川愼一郎
右訴訟代理人弁護士
前川信夫
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金五五〇万円及び内金五〇〇万円に対する昭和五五年八月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 被告による診療
被告は、肩書住所地において岸川医院を開設し、診療行為を行つている医師であり、原告は、高血圧症、洞性徐脈不整脈等の傷症名の下に昭和五五年一月七日から同年八月二三日までの間同医院に通院して、被告の診療を受け、投薬や冠拡張剤の静脈注射を受けたりしていたものである。
2 静脈注射による正中神経の損傷
(一) 原告は、同年八月二二日、同医院において被告の診察を受け、右治療行為の一環として右医院の看護婦により右前腕部の右肘内側、上腕と前腕の接する部分付近に静脈注射(以下、本件注射という)をして貰つたが、この時、同看護婦は、一旦右部位に入れた注射針を更に刺し込むという方法で右注射を行い、原告は、その瞬間から右注射部位に強い痛みを感じ、右痛みはその翌朝まで続いた。
(二) そこで、原告は、翌二三日、岸川医院を訪れ、被告の診察を受けた後、湿布薬をもらつて帰り、同月二四日も右湿布薬で痛みを抑えていたが、同月二五日、勤務先の岡田紙業株式会社での朝礼中に、右腕に激痛が走り、右腕が動かなくなつてしまつた。そこで、原告は、右会社を早退し、直ちに訴外安藤医院へ赴いて、「三日前から右上腕部に筋肉痛が増強し、痛い。重いものが持てない。」旨訴え、治療を受けた。原告は、その後、右安藤病院ほか数か所で治療を受け、灸による治療も受けたが、右腕の痛みは軽快せず、昭和五九年八月六日、訴外中村クリニックで診察を受けたところ、右前腕部神経損傷と診断され、現在に至るも右痛みはとれず、特に冬期には激痛になり右腕の動作は今もつて不自由な状態にある。
(三) 以上の経過に照らすと、原告に生じた右前腕の痛み等の症状が前記看護婦が本件注射を行つた際、注射針を深く刺しすぎて右肘部静脈下にある正中神経を損傷したために生じたものであることは明らかである。
3 被告の責任
医師が患者の上記のごとき前腕部に静脈注射する場合、注射針が誤つて神経を損傷するおそれがあるから、医師は適切な注射部位を選択し、いやしくも注射針が血管をはずれたりつき抜けたりすることのないよう正しい刺入角度でこれを行い、また、補助者たる看護婦に右注射を行わせる場合には、右適切な方法で注射を行う技量を有する看護婦を選任し、同人が右適切な方法で右注射を行うよう充分に監督すべき診療契約上の債務及び一般不法行為法上の注意義務を負うものである。
ところが、岸川医院の前記看護婦は、被告の補助者として前記注射の実施するにあたり、これを前記適切な方法で行う技量を有せず、注射方法を誤り注射針を誤つた角度で深く差し入れすぎたため、注射針が前記静脈をつき抜け、その下にある正中神経を傷つけたものであり、被告は、漫然と右のような未熟な看護婦を選任、雇用し、かつ、右看護婦が右注射を実施するにあたり十分な監督をしなかつたものであるから、これによつて生じた前記結果につき診療契約上の債務の不履行及び一般不法行為法上の過失責任を免れない。
4 損害
(一)慰藉料 金五〇〇万円<中略>
(二) 弁護士費用 金五〇万円<中略>
二 請求原因に対する認否<以下、省略>
理由
一請求原因1(被告による診療)については当事者間に争いがない。
二そこで、次に、請求原因2(静脈注射による正中神経の損傷)について検討する。
1 まず、原告の昭和五五年八月二二日以降の治療経過についてみておくに、原告が同日岸川医院において同医院の看護婦によりその主張の部位付近に静脈注射をして貰つたことについては当事者間に争いがなく、<証拠>によれば、以下の事実が認められる。
(一) 原告は、本件注射の日の翌日である昭和五五年八月二三日、右腕が痛むので、岸川医院へ赴き、再び湿布薬を貰つて帰り(右来院及び薬剤持ち帰りの事実については争いがない)、同日及び翌二四日は、右湿布薬により痛みに対する治療を行なつていたが、同年八月二五日、勤務先である岡田紙業株式会社での朝礼に参加中、突然、右腕にピリッという痛みを感じ、腕がピンと伸びたまま動かなくなつたので、急いで右会社を早退して安藤病院を訪ずれ、同病院で、三日前(八月二二日)から右上腕部に筋肉痛が増強し重いものが持てないと訴えて診察を受けたところ、右上腕急性筋炎と診断されて、湿布薬を与えられた。原告は、その日から約一〇日間右会社を休んでいたところ、次第に痛みがなくなり、少しずつ腕が動くようになつて勤務が可能になつたため、再び右会社への出勤を開始した。原告は、昭和四七、八年ころから、右会社で包装紙の出荷係の仕事をしており、三〇ないし三五キログラム位の重さの荷物を持つこともあつた。原告は、その後も、少し動きすぎると腕がしびれ、腕が「く」の字形にまがつたままの状態になつてしまい、暑い時や寒い時には、本件注射をした右肘あたりがピリッと痛む状態が続いた。
(二) 原告は、昭和五五年八月二四日以降、岸川医院への通院をやめていたのであるが、同五六年七月三一日、再び岸川医院を訪ずれ、右肘の関節が痛く伸展が完全にできないと訴えたため、被告は右肘部分のレントゲン写真を撮影した。
そして、被告が右写真により判断したところによると、右肘部の関節は、関節軟骨が退行性変化を起こして摩耗し、関節の空間が狭くなつており、また尺骨の肘頭及び鈎状突起部分に骨の増殖がみられたので、被告は、右肘関節炎と診断して、消炎鎮痛剤や湿布薬等を投与した。その後、原告は、昭和五七年二月一二日まで、一か月に数回程度岸川医院に通院し、被告は、その間、高血圧及び肘の関節炎として治療をし副腎皮質ホルモンの注射も施用したりしていたが、この間、被告に対し、本件注射をして以来肘の関節付近が痛くなつたというような訴えはしていなかつた。
(三) 原告は、その後も右腕の痛みが続いたため、訴外南野整骨院等数か所の病院等で治療を受けていたが、次第に、右痛みの原因は本件注射ではないかと考えるようになり、昭和五九年五月二一日、岸川医院を訪ずれ、被告に対し、右肘付近の静脈が痛いと訴えたところ、被告から赤十字病院の血管外科で診てもらうようにとの指示を受けたので、原告は、大阪赤十字病院を訪ずれて、数回診察を受け、右肘関節部痛ないし右肘関節骨軟骨腫症と診断されたが、同病院で一番痛いところに打つといつて注射を打たれた際、岸川医院での本件注射の痕をみたところ、そこから血がにじみ出ていたため、右肘部の痛みの原因は本件注射であるとの確信を持つに至り、その後、被告を相手方として東大阪簡易裁判所に調停を申し立て、調停の席上では、右肘部の静脈の具合が悪いと主張していた。
(四) 原告は、昭和五九年六月一一日から同年八月六日までの間に三回中村クリニックで診察を受け、同年八月六日の三回めの受診の際に、右前腕部神経損傷を病名とする診断書を作成してもらつたが、右診断に先立つてはレントゲン撮影のほかは特別の検査をした形跡は見当らないし、原告自身の右手指においては、本件注射時から現在に至るまで、正中神経麻痺に特有の症状である母指から中指にかけての三本の屈曲不能ないし屈曲困難は認められない。
また、原告は、昭和五九年七月一一日から、大阪市大附属病院で診察を受けたが、そこでは変形性頸椎症及び変形性肘関節症との診断を受けた。そして、被告の判断によれば、変形性肘関節症(岸川医院での診断名である「右肘関節炎」は、これを炎症から表現したものであり、同じものである。)とは、関節軟骨が摩耗し、そのため負担のかかる部分の骨が増殖して突出し、終末神経組織に痛みを生じ、また、関節部分に炎症を起こす症状であり、老人性のものである(なお、原告は、大正一一年五月二〇日生れであり昭和五五年八月当時満五八歳であつた。)。
2 そこで、右認定の事実に照らし、原告主張の本件注射による正中神経の損傷の存否について考えてみるに原告本人は、本件注射がなされた八月二二日当日は、いつも注射をしてくれる看護婦とは別の看護婦が、慣れない手つきで注射を実施し、その注射の方法は、まず原告の右腕に注射針を刺し、そのまま三〇秒くらい手を止め、その後血管にまで注射針を刺し込むというやり方であり、原告は、右注射をされたその時から、右腕部分に痛みを感じた旨供述しており、また、<証拠>によれば、前記中村クリニックにおいて右前腕部神経損傷との診断書(甲第一号証)が作成されていると認められることは前示のとおりであるところ、これらはいずれも一応、原告の右主張の裏づけとなるべき証拠であると考えられるが、仮に右本人の供述するような状況であつたことは事実としても、事の性質上、そのことから直ちに原告主張の正中神経の損傷を肯認するのは困難であり、また、前記中村クリニックの診断もそれが本件注射後約四年も後に原告を診察した結果に基づくものであり、右のごとく診断した経緯や根拠は何ら明らかにされていないことを考慮すると、これまた、前記正中神経損傷の事実を肯認させるに充分なものとは認め難いといわざるをえない。
右のとおり一応、原告の主張の裏付けとなるべき原告本人の供述や前掲甲第一号証(中村クリニックの診断書)それ自体、いまだ前記正中神経損傷の事実を肯認せしめるに充分なものとは認められず、右両証拠をあわせてみても、右事実を肯認するには充分なものとは考え難いうえ、大阪赤十字病院や大阪市大附属病院においては前示のとおり右肘関節骨軟骨症あるいは変形性肘関節症との診断がなされていることや正中神経麻痺に特有の症状は認められないことを参酌すると、本件全証拠によるも、原告主張の本件注射による正中神経損傷の事実は肯認し難いといわざるをえない。
三以上のとおりであつて、原告の本訴請求は、その余の点の判断に及ぶまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官上野 茂 裁判官小原春夫、裁判官大須賀滋は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官上野 茂)